大河内 敦の裏blog(番外編)

広告会社に勤める一級建築士の断食経験とその後。

12月13日 ツアー四日目

今日は朝から、元会社の寮があった跡地周辺の視察。今回のツアーで最もしてみたかったことの一つだ。場所は京王線調布駅から一つ脇に逸れた京王多摩川という駅になる。

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寮に住んでいたのは1983年~89年の6年間。場所は、つげ義春の漫画の舞台にもなっている、正直、少し貧乏くささが漂うカンジの街だった。近くに京王閣という競輪場があり、レースの日にはおっさんが大挙して集まり、駅前の路地では焼いた鶏の脚が売られ、おっさんたちは鶏の脚・コップ酒・競輪新聞と赤ペンなどを持ち路地の両側にズラリと座り込む。~ その間を、学校帰りのおびえた女子高生が小走りに駆け抜けて帰宅する。

周辺の空き地にはその土地の持ち主のおっさん・おばさんが立ち、車でやってきた客に車をとめていいと手を振り誘う。そこで徴収される駐車料金はおっさん、おばさんのささやかな臨時収入になる。京王閣の存在は、この町の雰囲気を決定づけており、ある種の活気をもたらしていたが、町が垢抜けることを阻んでもいる様に思えた。

で、その京王多摩川に到着する。京王閣が新しくなっており、それに伴い周辺が整備されたのか、駅前の道が広くなっていたり空き地が無くなって新しい家が建ってたりで、簡単に言うと町がずいぶん明るくなっていた。昔この町が持っていた"生活感"はその新しい街並みの奥に埋もれてしまったようだ。それでもところどころ見覚えのある家屋は残っていたはいたが。 ~ 記憶をたどりながら、むかし寮があった場所にたどり着くと、やや高層のマンションが建っていた。寮は多摩川べりに建っており日当たりは良かったから、さぞかしここの住人は心地良く暮らせているだろう。

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昨日に引き続き天気は良く、遠くに富士山を見ながら多摩川を渡る。昔ひなびた駅だったJRの矢野口も整備されツルツルピカピカになっていた。道路も拡張されており、慢性的に渋滞していた鶴川街道の交通環境も飛躍的に改善された模様。その反面、昔、寮生が溜まっていた昭和なスナックなんかは町並みから消えている。

そのまま折り返して、今度は調布駅まで歩くことにした。途中にあった理髪店や焼肉屋、ラーメン屋なんかは、ご主人が高齢化したのだろう、廃業したり別の店に姿を変えている。

で、今度は調布駅である。駅は複々線化を機に地中化され、地上の跡地はバスターミナルの広場になっており、駅の南側から、北口にあるパルコが何にも遮られることなく陽に照らされその姿を晒しているのが見える。イオンシネマビッグカメラといった大規模商業施設も出来ていた。ウィークディのお昼前、小春日和の駅前は大勢の人が行き来している。 ~ 私が懐かしさを感じる余地は無い。仕方がない、この30年間、私とは別の時間がこの町には流れてていたというだけのことだ。

変わってしまった街並みをひとしきりカメラに収めながら町を歩いていると、歩数計が2万歩を指していた。そろそろ帰るか、と、京王線・新宿行きの特急に乗り込む。

新宿で降り、西口の野村ビルに向かう。地下に大学生のころからよくデートに使っていたパスタ屋さんがある。本店は代々木だったが施設の老朽化で4、5年前に閉店し、今ではここしか残っていない。 ~ 日曜なんかは、新宿西口の高層ビル街はビジネスの街なので人通りが少なくなるが、周囲のお店が閉まっていてもここだけは開いており、薄暗い地下の廊下でここだけが明かりが点いてて、行列が出来てたりする。

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メインはウニ、いくら、たらこ、イカ、等の海産物をバターであえたパスタで、固めに茹でた麺と、バターや具の塩気とうま味が冷えたビールや白ワインと合う。マスタードが効いたイタリアンサラダも美味しい。歩き廻って少々疲れた身体にしみ込んでいくカンジがする。

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ホテルに一度戻り、夕方まで写真の整理をしながらすごした。今日は寮生有志との飲み会の日である。みんな早く集まれるようなので、5時半にお店に集合した。

このお店、わが社が築地にあった頃にうちの社員が特に昼食で愛用していたお店だ。魚料理のお店で、シンプルな焼き魚定食は忙しい日時用の一服の癒しだった。今も変わらず兄弟の板さんがカウンターに立つ。

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解体が始まった旧本社屋のそばのお店、暮れも押し迫りつつある夜、昔の仲間で集まり炙った肴と甘めの熱燗での会食は心が温まり、また今年も一つ年を取ってしまった淋しさとあいまってちょっとセンチメンタルな気分にもなる。 ~ 年末あるある、か。

今の会社では、昔の様に大勢で集まって住む"寮"の様な形態は無くなりつつある。地方から上京した新入社員には、マンションを借り上げて個室をあてがうスタイルが一般的だ。だが、私は入社からの六年間を寮で過ごせたことを幸運だったと思っている。 ~ 同じ様な年代の若い社員が同じ会社に勤めるという共通の基盤を持ちながら、かと言って特段の利害関係がある訳でも無く、ただ、仕事、本、音楽、アイドル、映画、そして女の子、といった共通の興味や趣味の赴くままに緩やかにつながりる。あるいはそんな具体的なテーマは無くても、会社から疲れて帰って来て、一緒に風呂に入り、大食堂で寮が用意してくれた夕食をレンジで温めて食べながらビールを飲み、深夜のテレビ番組を一緒に観ながらウダウダと過ごす。若い日々のある一定期間一緒に過ごす、その時間の共有にこそ意味があると思う。今となっては、強く思う。

翌朝、「話しそびれた話題が次々に頭に浮かんできて、よく眠れなんだ」とのメールが先輩から届いた。

12月12日 ツアー三日目

今日は、昔上司だった方のお墓参りである。奥様が私のお願いを受け入れてくださり、実現した。

この元上司は、わが社が誇るスター・イベント・プロジェクト・プロデューサーだった。つくば万博で全民間パビリオンの70%を獲得することが出来たのはこの方の功績である。あるクライアントの競合プレゼンテーションで、この方がプレゼンしている最中に役員が「うちのつくば万博の担当は、おたくに決めました。」と、あとの会社のプレゼンを聞かずに決めた、という。ことごと左様に伝説の多い、スタープロデューサーだった。私が入社した時は隣の部の部長で、その後私の部の部長になり、別の部の部長になったと思ったらまた私もそこに引っ張られ、なにかと縁がありかわいがってもらった。ピエールカルダンの紺のスーツ、うすいグラデーションの入ったメガネ、いつもニコニコしていてスマート、英語を流暢に繰る姿も当時の部長としては珍しく、とにかくカッコよかった。その後パリ支社長になられた。

入社はしたもものの、ある程度商売の経験を積んだら辞めて個人事務所を開こうと考えていた私は、この方の姿を見て、そのスケールの大きい仕事をスマートにスピーディにこなす様子、インテリジェンス溢れる話しぶり、何より一度いっしょに仕事をしてみたいと思わせるそのオーラに、考えを変えた。~ この人の様になるにはどうしたらいいのか、と。その後、私は会社を辞めようと思ったことは無い。入社間もないタイミングで憧れの先輩に出会えるというのは、その後の会社生活を営む上でも極めて重要な体験である。

何度かお宅にも遊びに行かせてもらった。私が大学時代に描いた図面を持っていき、それを見て、いたく感心していただいた。後から聞くと「純粋に自分が作りたいと思っているものを、それだけを描いた図面」に、感じるものがあったらしい。 ~ 少し子供扱いされた様ににも感じたが、真剣に感心してくれてたようで、やはりありがたい話である。

今年の5月25日、あいにくの曇り空で皆既月食観察をあきらめて帰宅したら、奥様から訃報を伝える電話が入っていた。 ~ 親族だけで、戒名なし、読経なし、お好きだったジャズのCDをかけてのお別れの会だったらしい。最後までカッコいい。

で、今回のお墓参りである。広々とした公園墓地、奥様の案内でお墓に到着、小春日和の日差しのもと、無事ここまで会社を辞めずに勤め上げられたことへの感謝のお祈りをささげることが出来た。

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帰りに駅前でケーキとお茶をいただきながら、奥様とお話しをした。なんでも、夫婦喧嘩を一度もしたことが無く、病気療養中のお世話も奥様は苦に思ったことも一度も無かったらしい。

うちはカミさんが無神経で喧嘩ばっかりで、メシも作らせるとアラが気になるので自分で作り置きしたものを食べているのだ、という様な話をすると、「あなたみたいにめんどくさい性格の人には、奥さんが無神経なくらいでちょうどいいのよ。」「両方同じ様なタイプだとしんどいし、ふつうの奥さんならあなたに作らせないで、頑張って作って、でもあなたに文句言われて、言われた本人もまた文句言って、みたいに辛いことになっていく。あなたが作って、それで自分は何とも思わないくらいがいいのよ。そんな奥さんなら安心だわ。」と、われら夫婦についてコペルニクス的転回を思わせる見方。 

 ~ 確かに言われてみればそうかも、と、思えた。さすが、スター・プロデューサーの奥様。視点の広さが素晴らしい、と、感心した。その後、家に帰って無神経なカミさんとの日常に戻ったが、そんなもんかも、と、思える様になった。 ~ お墓参りも有意義だったが、奥様のこのお話しはそれに劣らず有意義だった。

12月11日 ツアー二日目。

今日は病気の先輩のお見舞いである。

いろいろ気が回る、というか、「気にしぃ」の後輩が、お見舞用のケーキを調達の上ホテルの前まで迎えに来てくれた。レース用にガチガチにチューンナップされたベンツである。盛大に化石燃料を食いそうだ。

助手席に乗せてもらい、お見舞い先に向かいながら東京本社のかつての同僚の近況を聞かせてもらう。 ~ が、この年になると、誰が亡くなった、誰が病気、というたぐいの話が多い。おまけに誰が不祥事で免職になったみたいな話も続き、頭の10分で結構ゲンナリしてしまう。 ~ 青春プレイバックツアー、前途多難の門出だ。

先輩のおうちのそばに少し早く着いたので、食事しながら時間調整をする。気にしぃの後輩が、卒業祝いと言ってロットリング社のボールペンをプレゼントしてくれた。

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製図機器メーカーのボールペンで、作りがしっかりしておりペン先がブレず、適度な重量が心地良い。ありがたく頂戴した。

注文したお魚のお丼を食べ終わり、先輩のうちにお見舞いに向かうことにしたが、ここでまた気にしぃの後輩が支払を済ませてくれた。確かにシニアの再雇用という立場の私の年収は、多分、彼の1/3位だろう。それを気にしたのか??  ~ いずれにしても、かつての後輩におごられる日が来たことは、感慨深いものがある。

お見舞いは、二階の日当たりのいいダイニングで2時間ほど。結構話が弾んだが、帰る段になってお手洗いを借りて戻ると、後輩が泣きそうになっている。 ~ 難病の先輩を見るというのはつらいことなので、あらかじめ「泣くなよ」と言っておいたのだが、やはり最後はダメだったようだ。

帰る道すがら、また、死んだ、病気だ、懲戒免職だ、の話の続きを聞きながら東京の街を走る。

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この日の夜は、13日の夜の飲み会に予定が合わなかった寮の先輩が誘ってくれ、ありがたくも別席でサシでご一緒させていただくことになった。

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この方は私の一年先輩で、私が入社した時の人事局・教育部で新入社員研修を担当してくれていた。年次が近い先輩で、かつ研修担当と言うのは何かと相談しやすく、しかも同じ寮ということもあり、可愛がってもらった。今は私と同じく退職後のシニアの再雇用だが、各所から講演を依頼される広告メディア・マーケティングスペシャリストで、現役バリバリである。会社とはフリー契約の様な形で報酬を受け取っておられる。 ~ で、ここでもやはり話は健康のことになる。私は58才の時に脊柱管狭窄症で手術をしているが、先輩の坐骨には人工関節が入っているとのこと。レントゲン写真も見せてもらった。

青春プレイバック二日目の教訓は、昔を懐かしむ同じ重さで今の自分の身体を振り返ると、「昔の様には走れないけれど、動けなくなるまで走れ!」ってことでしょうか。

 

 

12月10日 ツアー初日。

午前9時15分新大阪発ののぞみで東京に向かう。

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途中、見るのが難しいと言われる、進行方向右側の富士山というのを見ることが出来た。見えていた時間が短く写真を撮る事は出来なかったが、さい先いい気分になる。

ちょうどお昼頃、新橋の宿に到着。荷物を預けて、そのまま築地へと歩き出す。

旧本社屋跡地に到着すると、社屋の解体工事の真っ最中だった。 ~ 自分の退職するタイミングで旧社屋の解体が始まるというのも、なんか一つの時代が終わっていくようで、宿命じみた気分になる。

隣のビルの地下のカレー屋さんに行く。パシリ仕事が多い若いときは、当然忙しく昼メシもそんなに時間をかけられない。そんな時、パッと食べられてボリューム感のあるここのカレーには大変お世話になった。

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おばちゃんが私の事を覚えてくれていた。~これもツアー初日から、さい先がいい。なんでも昔の客は覚えているが、年のせいか最近の客が覚えられないらしい。わかる!!

カイロプラティックの先生に会うまでまだ時間があったので、13日の夜の飲み会の場所を探す。事前にメンバーに飲みたい・食べたいところをメールで訊いておいた。5件ほど候補が集まり、順番に廻る。一件目は洋食店。忘年会の時節柄か、満席。だが、二軒目は運よく席が抑えられた。

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築地らしい、お魚のおいしいこじんまりしとしたカウンターだけのお店だ。暮れも押し迫ったこの時期に、炙った肴と熱燗での会食を想像して心が躍る。

午後三時、カイロプラティックの先生のところに伺い、挨拶ののち5-6年ぶりに施術を受ける。実は本社から関西に転勤するとき東京で一番未練があったのが、この先生の施術であった。大変、腕がいい。初めて施術を受けた夜、爆睡できたのを覚えている。

重い荷物を持って歩き廻った身体が一気に軽くなる。 ~ 明日からの挨拶回りの気力がわいてきた。

 

ご挨拶廻りの段取り。

ツアープログラムの調整である。先ず、この素晴らしい会社への就職を進めてくれた大学の先生、勤務の要所々々でご指導・ご調整いただき、結果、今日まで勤め上げられたことにお力添えいただいた上司の方々に感謝を伝えることをプログラムの主眼に置くことにする。

       ~ しかし、連絡を取りアポイント取ることにしばらく躊躇していた。

 

亡くなられている方や、闘病中の方もいらっしゃる。その場合、お墓参りやお見舞いのお願いも併せて行いたい。 ~ 一方、数十年単位の時が流れており、その間お互い別々の時間を生きている。私はたまたま退職という機会があってこういった申し入れをさせてもらっているが、言うまでもないことだがそれをどう受け取るかは先方次第である。当然、ご主人のお墓参りをしたいという、しかしあまり面識がない元部下の相手をしたがる奥さまは少ないと思うし、闘病中の身体で元部下と会うのも、ある種勇気がいることだろう。 ~ だが、とりあえずお願いをしてみないことには始まらない。

気を取り直して、ツアー開始の三日前位になって集中的に連絡を取った。結果、会っていただける方といただけない方が半々といったカンジだった。いずれにしても、会えない方にも転職のご挨拶状を送ることにはなるので、その際にお見舞いや感謝の気持ちも込めてクリスマスのお花を贈ることにした。

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いろいろ調整したり考えたりして、決定した予定は、

・12/10(金) 東京へ移動。先ず、築地の旧本社跡を視察。当時よく行っていたお店で昼食。その後、昔疲れた体を癒してくれていたカイロプラティックの先生の治療院を伺う。

・12/11(土) 後輩とともに、病気療養中の先輩のお宅にお見舞い。

・12/12(日) 後輩とともに、今年亡くなられた元上司のお墓参り。

・12/13(月) 日中、入社当時住んでいた会社の寮の跡地周辺を視察、夜はその寮で一緒に住んでいた先輩・同僚と、これまた築地の旧社屋周辺で良く通っていたお店で飲み会。

・12/14(火) 施設に入所中の義理の母のお見舞い。午後、大学の先生の事務所訪問。夜、東京時代最後に一緒に仕事した新入社員、今は部長、と飲み会(彼とは、私の関西転勤の送別会の時に、一緒ににわかバンドをやった)。

・12/15(水) 昔お世話になっていた、下北沢の飲み屋のママのご自宅へご機嫌伺い。

・12/16(木) 名古屋へ移動。中部支社訪問の後、私が関西に帰任するあとを引き継いでくれた女性部長と食事。

・12/17(金) 関西へ移動。たまたま関西に来ている中学時代の親友、今、東京で大学教授が再就職お祝いをしてくれるというので、彼の宿泊先で落ち合うことに。

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結構な強行軍だが、何度もあることではない、多分一生一度のことだと思うので、ここは頑張って予定を詰め込み、体調をコントロールしながらこなすことにしよう。

退職を機に、ご挨拶回りツアーを目論む。

今回、再就職が決まって38年間務めた今の会社を退職することになったのは、すでに述べた通りだ。で、断食して身体をリセット出来たところで、精神的にもケジメをつけたいと考えた。 ~ 具体的には、前回にも書いたように入社以来お世話になった方々への「ご挨拶廻り」を兼ねた「青春プレイバックツアー」だ。幸い、狙ったようにコロナが下火になってくれた。

1983年入社・本社配属、1996年の関西転勤後の25年は、途中で愛・地球博開催に端を発して2002年から2年8カ月の中部支社勤務を挟んでいる。東京→関西→中部→関西、と、都合38年の会社人生だった。

思い返せば、私にとって数々の有意義な出会いがあり、もちろんシンドイときもあったが、それも込みでそれはそれは幸せなビジネスマン人生を過ごさせてもらったと思う。

何より「食うために働いてるんだから、ガマンする」ということを意識したことは一度たりとも無かった。 ~ わたしの父親は小さな町工場の工場長だった。「辛いことがあってもお前たちの顔を思い出して、毎日ガマンして仕事している。」と、絵にかいたようなブルーカラーの父は、夕食の時に酒を飲んで酔っ払っては子供たちに話していた。(父親は気が短くて、とてもガマンしている様に見えなかったのだが。) ~ いずれにしても、妻や子を養うために働いているという意識を一度も持たずにここまで働けたことは、仕事の内容がそれだけ自己実現に直結しており面白く、経済的にも恵まれてていたという証左だろう。加えて、とても広い世界も見せてもらった。この環境には感謝しなければならない。

で、「プレイバック」である。皆さんも同窓会なんかに参加した際に経験があると思うが、何十年たっても当時の友人と会うと昔の心情が再生され、そのまんまの関係が再現される。~「Playbackー再生ー」と言われる所以である。昔の自分と今の自分を比較して38年の会社生活を総括してみる。 ~ 面白そうじゃないか。

残っている有休消化も兼ねて休暇を12/10~17取得することにして、関係各所に連絡し、ツアープログラムを組むことにしようと考えた。 

11月24日(木) -断食プログラム明け・三日目-

本断食終了して、今日で一週間である。舌が敏感になっているので、チョコやお茶の類も少しの量で味わえ、満足する。この状態がこのまま続けばいいのだか。

体重は回復傾向で、76Kg前後 ~ 断食前と比べると、8kg減って3kg戻したカンジだ。

散髪に行く。髪を短くしてもらうとともに、断食中に伸びたヒゲもきれいさっぱり剃ってもらった。

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しばらく、このまま、シリアル・常備菜・アルコール抜きの生活を続ける。

アルコール解禁は、前回と同じく断食終了後20日後の12/8になる。その後、以前に書いたように退職前にや世話になった方たちにあいさつ回りをする予定だ。